コロナでも生きていく

パパのこと

コロナ渦での生活

誰もがこれまでの生活様式を変えないといけなくなりましたね。
マスクなんて花粉症でもなかったので、インフルエンザの時期しか付けていなかったのに夏でも暑かろうが何だろうがマスクをして、カウンターセールスの仕事をしていたので、アクリル板を隔てて接客をして、お店に入るたびにアルコール消毒。

家に帰ってもすぐに手を洗って消毒してとかなり気を付けていましたね。
マスクの日焼けをしていたりとか、マスクかぶれができて痒くなったり。

子供たちの学校の勉強はオンラインでまずは朝礼のようなものから始まります。
週に1回だったかな。

もちろん、宿題やテストもあります。
今思うと2人の息子はすごい頑張っていたと思います。

次男の答案用紙 当時2年生

特に次男は先生からの問いかけに「YES!」とか「NO」などしか返事ができないくらいで、近くにいた奥さんに頼って確認しながら授業を受けていましたね。

リモートでの学校の授業が終わったら、そこからオンラインで英会話のトレーニングがスタート
ネイティブな講師は費用が高いので、アジア圏の講師を予約して1回45分間程度だったかと思うが、ほぼ毎日やっていましたね。
車で移動している時もスマホで繋いでレッスン

できるだけ家族と

いつロックダウンが解除になるのかわからないので、できるだけ家族と過ごす時間を作ろうと思っていました。
実際、病気になる前は家族との時間を作ってはいたものの、転勤があって単身赴任をしたり、朝早く夜も遅くなって帰宅したりしていた。

病気をした時に移住を考えていたのも、「家族とゆっくりとした時間を過ごしたい」という願いが出てきたのがきっかけの一つ。

大阪のUSJに泊りで行ったり、車で1時間半程度の場所に旅行に行ったり。
コロナのGo To Eatキャンペーンで無限くら寿司を体験したり。

楽しい時間を過ごしていたけど、体は少し疲れていた。
仕事でも元々給料が高かったのもあって、降格になったことによる減給。
しかも、1年間で20%以上給料を下げてはいけないので、毎年少しずつ下がるのが確定。
どれだけ頑張っても昇格しない限り給料は下がるのが確定。
そりゃ、モチベーションは下がりますよ。

おかげで円形脱毛症を発症

美容室に行ったときに担当の人が「見えないように隠しましたから」って言われて初めて気づく。
抗がん剤の影響でスキンヘッドにはなったけど、円形脱毛症は初めてだった。

あれって、本当にツルツルになるんですね~

いよいよロックダウンが解除

様々な情報が飛び交い、どれが本当の情報なのか?最新の情報はどれなのか?と取捨選択をしながら現地マレーシアの情報を掴んでいっていました(基本的には私ではなく奥さんが全てやってくれていました)

日本も外国からの入国者に対して待期期間を設けていたけど、マレーシアも同じように待期期間を設けて入国の許可が出たらしい。

結果的に自分は現地での仕事は見つけることができず、また仮に現地の仕事を見つけたとしても今までのキャリアを生かせるような仕事ではない。

インターナショナルスクールに通わせると考えるとやはり現地の給料だと心もとない。
でも、学校は既に決まっていて住む場所も決まっている。

ロックダウンも解除になって入国できる。またいつロックダウンになるかわからない。
このタイミングしかなかない。

改めて荷物のパッキングを行ってそれぞれスーツケースとリュックにパンパンに詰めて出発の日が近づいてくる。

子供たちはまだ体も小さいし、マレーシアは常夏なので冬服は不要
できるだけ圧縮して持てるだけ持っていく。

結果的にスーツケース5個と各自リュックで出発することになる
スーツケースだけは車に積んでおいて、私以外の3人は電車で空港まで出発。

写真には4つしか映ってないけど実際にはスーツケース5こ


私も仕事が終わってそのまま車で見送り。(休めなかった)
当時、まだエアアジアがずっと運休のままだったのでJALで移動のため羽田空港ではなくて成田空港へ

あまりギリギリ過ぎて乗り遅れてしまってはいけないので、できるだけ時間に余裕をもってみんなとの時間を共有する。

今はもう見かけないフェイスシールドを手に持っている

自分は次の日も仕事のため、車を走らせて自宅に帰る。
さっきまで賑やかだったのに、車の中には自分一人と自分のバッグだけ。

FMラジオがかかって音楽が流れているだけで誰とも会話していない。

ここから一人暮らしが始まる。
単身赴任の時以来の一人暮らし。「ちょっと今度の週末帰るね」ってレベルの距離ではなくしばらくは会えない。

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